EWEウェブニュース No.255(2016-21)2016-9-9
1955年電気工学科卒の「EWE30文集」から児玉慎三様が寄稿してくださいました。
『オレゴンの思い出』
私も82歳になり、来た道を振り返り、過ぎ去った出来事を思い浮かべるこの頃です。ゴルフでいえば、その日のラウンドが終わり、スコアカードを片手に、いまさ
ら変えようのない成績を眺めているという状況でしょうか。
早大電気を卒業したのち、1956年から6年間、私はオレゴンとカリフォルニアで留学生活をおくりました。そのきっかけは、早大電気の図書室でたまたま手にし
た「サーボメカニズムの理論」というMITの資料でした。さっぱりわからないが、どうも交流回路解析と同じような手法で「制御システム」なるものが扱えるらしく、
「この技術分野の発信国であるアメリカで、こんなこと勉強したいなあ」と思いました。
当時は1ドルが360円の時代、円の持ち出しは禁止で、留学するにはアメリカ人の保証人が必要でした。そこで、ポートランドに駐在していた商社マンの兄に頼ん
で、形式的な保証人を見付けてもらい、貨客船で2週間をかけ太平洋を渡り、オレゴン大学の修士コースに入学したのが56年4月のことです。
広大な芝生の広がりと、巨木が茂る公園のような大学キャンパスの美しさに驚きながら、クラスに通うことになりました。さいわい、授業レベルは苦労するほどのもので
なかったので、心細い生活費を補うためにアルバイトを始め、アメリカ人家庭の芝刈りや塀のペンキ塗りなどやりました。学生バイト代は1時間当たり1ドルと決まって
いて、5時間働いてやっと5ドル、肉体労働で稼ぐのは大変だということを痛感しました。
デートの経験もしました。当時の下宿のルームメイトは、付き合っているガールフレンドがいて、彼女が女子大生の友達を連れてくるから一緒にデートしようというの
です。いわゆるダブルデートというものですが、初対面の女の子に英語でどう接したらよいかわからず、楽しいというよりほろ苦い思い出が残っています。
愉快な思い出は、遊び半分に出場した57年度オレゴン大学校内テニス大会で優勝し、大学新聞にカップをもった写真が掲載されたことです。ピンポンの校内大会に
も出たのですが、これは決勝戦で敗れました。
修士課程を終わり、58年からはカリフォルニア大学バークレイ校に移りました。当時のバークレイの電気工学大学院は、アメリカにおけるシステム制御理論の中心グ
ループの一つで、活気に満ちて、のちに制御分野の研究・教育で身を立てるうえで、大きな影響を受けました。
しかしながら、これまでの60年をいま振り返るとき、私にとってオレゴンは、とまどいながら貧乏留学生としてスタートした地であり、美しい風景と人情あ
る人々の思い出とともに、懐かしく心によみがえるのです。
以 上